(2017年10月1日記載)

高橋庸(いさお)さん 

現在、大阪府で陸上競技のジュリーをされています。

陸上競技「変化と進化の50年」と題して陸上競技を話していただきました。

*ジュリー   (Jury of Appeal )は上訴審判員

 

< 陸上競技「変化と進化の50年」 >

 

高橋 庸(第16期)

 

1.ターニングポイントの「68 メキシコオリンピック」

 

1)「土からゴムへ 魔法のトラック」

 

「土」から「ゴム」の全天候型グランドに大改造された最初のオリンピックで、その威力は男子100mと男子走幅跳で実証された。空気抵抗の少ない高地と「タータン・トラック」が生み出した大記録であった。また、男子走高跳では、「フォスベリー・フロップ(背面跳)」の選手が五輪新記録で優勝、その後は背面跳び全盛となった。更に、「ハンマー投げ」で小柄な日本人選手が、世界初の「4回転投げ」の技術を駆使して4位入賞の偉業を果たした。

 

2)「遂に出た 夢の9秒台」

 

男子100m、ジム・ハインズ(USA)が、10秒の壁を破る「人類初の9秒台」での金メダル。メキシコ五輪当時は、未だストップウオッチによる10分の1秒単位での手動計時。電気時計での100分の1秒単位だけの記録が公認となったのは75。68五輪金メダルに輝いたジム・ハインズの9秒95(五輪当時9秒9)が「人類初の9秒台」として遡って公認された。

 

3)「頭上カッ跳び 21世紀の大ジャンプ」

 

男子走幅跳、ロバート・ボブ・ビーモン(USA)が、21世紀のスーパージャンプと称賛された「8m90」のWRで金メダル。当時のWR8m35を55㎝も上回る大記録であった。この記録は第1試技の跳躍であり、このあと雨が降ったことと、自身の大ジャンプの余りの興奮と感激で、残る5回の試技をすべて放棄した。全米予選では100mでもリレーでも選ばれず、副業の走幅跳で、いきなりWRを樹立したぶっちぎり優勝であった。ちなみに第2位は8m19。競技役員の頭上を跳ぶ空中写真に度肝を抜かれた記憶が、今も鮮明に残っている。

 

4)「何だこりゃ 背面跳び」

 

男子走高跳では、ベリーロールとは真逆のバーを背中に跳び越える前代未聞の「フォスベリー・フロップ」の映像が世界に流れた。発案者はリチャード・ダグラス・フォスベリー(USA)。中学校での「はさみ跳び」から高校では「ベリーロール」を取り入れようと試みたが記録は低迷。大学に入り三段跳に転向を勧められた事で一念発起して2m10を跳んだ。その後、バスケットボールの左右からのレイアップシュートの動きにヒントを得て、助走と空中姿勢に更なる工夫と改良を加え、全米学生選手権優勝、五輪代表選考会通過を果たした。参加選手中唯一の「背面跳び」採用選手ながら、当時の五輪新記録2m24で金メダルを手にした。その後、世界中に広まった背面跳びで記録が「飛躍的」に伸び、1993年ハビエル・ソトマヨル(キューバ)が、頭上60㎝超の2m45を記録し、今もWRとして残っている。フロップ(flop)の意味が、「バタンと倒れ込む」ことから「フロップ・ジャンプ」と呼ばれた。

 

5)「世界初 4回転投げ」

 

男子ハンマー投げ4位入賞(69m78)の菅原武男(リッカー)は、100m10秒台という投てき選手としては桁外れのスプリント力を備えていた。外国人選手との体格差を技術でカバーするため、そのスプリント力を最大限に生かした回転スピードに代えて編み出したのが、通常より1回多い「4回転投げ」。競技役員、選手全員が、かつて、見たこともない速さでの4回転ターンに驚嘆。大柄な外国人選手にとって、直径2.135mの狭いサークル内での4回転は至難の業であった。

 

2.施設・用具

 

1)アンツーカー・グランド➡ゴム製の全天候型グランド(トラック、フィールドピット)

 

2)鋼鉄製巻尺計測➡科学計測装置(光波計測:投てき、跳躍、風力)

 

3)手動式ストップウオッチ➡写真判定システムによる電気時計計時(信号機と連動)

 

4)手動式ストップウオッチ➡チップ(トランスポンダー:腰ナンバーカードに装着)

 

5)不正出発判定装置➡スターティングブロックにセット

 

6)固定式スパイクピン18㎜・6本(HJ・やり投げ8本)➡取替式・9㎜・9本(同11本)

 

7)重心位置➡「やり」の頭部寄りに20㎜移動(飛び過ぎ抑制)

 

8)8レーントラック➡9レーントラック(1/1000秒着差なしの同着想定、1レーンの摩耗防止等)

 

9)ジュラルミン製ポール➡グラスファイバー製ポール

 

3.技術

 

1)土を「蹴る」➡トラックを「叩く」短距離走法(キック・ロスがゼロ、強烈なゴムの反発)

 

2)ベリーロール➡「背面跳び」

 

3)3回転投法➡4回転投法(ハンマー投げ)

 

4)グライド投法(バックステップ)➡回転投げ出現(砲丸投げ)

 

4.ルール

 

1)アンチ・ドーピング(ドーピング検査)

 

2)回転式やり投げ➡禁止(危険、飛距離抑制)

 

3)回転着地(走幅跳、三段跳)➡禁止(危険)

 

4)位置について・・・用意➡位置について・・・ready➡On your marks・・・set

 

5)不正出発個人2回目、全体2回目以後失格➡1回目から失格

 

6)公認風力1.9m/sec↓➡2.0m/sec

 

7)男女混合競技➡国際競技会以外の競技会におけるフィールド競技及び5000m以上の競技(歩)実施可。

 

8)Best 6(試技順変更なし)➡Top 8(フィールド競技の試技順は成績下位順))

 

9)スパイクピン18㎜/6本➡9㎜/11本(走高跳・やり投げ12㎜)

 

10)ゼッケン➡ナンバーカード(トラック競技の腰ナンバーカード装着等)

 

11)ナンバーカード➡跳躍は胸・背の何れか1枚でも可

 

12)コース➡レーン

 

13)ゴール(ライン)➡フィニッシュ(ライン)

 

 14)審判長➡スタート、招集場、場外競技、練習場、ビデオ観察等の新設

 

15)場内司令➡マーシャル(Marshal)

 

16)上訴審判員➡ジュリー(Jury of Appeal)

 

17)シャペロン➡ドーピング検査の補助審判員

 

18)コース幅1m25➡レーン幅1m22

 

19)ジャンプオフ➡1位決定戦(走高跳・棒高跳)

 

20)踏切線の糸張り・盛砂➡粘土板(10㎝幅)

 

21)三段跳ツーステップ(振り出し足接地)は無効試技➡有効試技(有利にならない)

 

22)ピットレーン方式➡競歩でレッドカード3枚の競技者を一定時間(時間は主催者決定)、ピットレーンに留める。その時間はフィニッシュタイムに加算される。

 

23)「よし」「だめ」の発声➡不要(フィールド競技)

 

24)高校男女五種競技➡男子八種競技、女子七種競技

 

25)高校男子110mJH➡110mHJHは中学男子に摘要)

 

26)80mH➡100mH

 

27)4×200mR➡4×100mR、4×400ⅿR

 

28)女子種目➡5000m、10000m、3000mSC、400mH、4×400mR、棒高跳、

 

三段跳、ハンマー投、七種競技

 

5.「その時、彼らが・・・・」

 

「タータン・トラック」と出会っていれば、もっと早くに「9秒台」は実現した。

 

1)ジェシー・オウエンス(USA

 

1936年(昭和11年)ベルリンオリンピック4冠王(100m、200m、走幅跳、4×100mR)。トラックは土、つま先部分の地面を掘った小さな「穴」がスターティングブロック代わり。100m優勝記録10秒3。競技場で黒人の大活躍を目の当たりにした、ドイツ・ナチス党総統ヒトラーは、大いに気分を害して憮然と退席。

 

2)アルミン・ハリー(統一ドイツ)

 

1960年(昭和35年)ローマオリンピック2冠(100m10秒2、4×100mR)。その後、10秒00のWRを樹立。だが、グランドの傾斜に異議が出され、走りなおして再び10秒00をたたき出した白人。

 

3)飯島秀雄(日本)

 

水戸市立緑丘中学校時代は野球部だったが、3年生の時に足の速さを評価され放送陸上大会の100mに出場して2位となる。これを契機に県立水戸農業高校に進学後、陸上部の短距離選手となる。その後、東京目黒高校(現・目黒学院高校)陸上部監督で水戸農業高校OBの大和田氏に素質を見出され転校。その年の秋の国民体育大会で10秒6を出して1964年の東京オリンピック準候補選手に選ばれ、当時の日本記録(10秒3)保持者、「暁の超特急」と言われた吉岡隆徳氏のコーチを受けることとなった。オリンピック年の6月、西ベルリン国際競技会で10秒1を記録し、師匠の記録を29年ぶりに更新した。両手をグッと広げた低い姿勢からの「ロケットスタート」が特徴で、前半50mまではオリンピックの舞台でも世界の強豪相手に一歩も引けを取らなかった。

 

6.余談

 

1)ロケットスタート➡今夏(17)のロンドン世界陸上出場の多田修平(関学大)が得意とする「ロケットスタート」の元祖は、上記の「飯島秀雄」。高校生出場の63年アジア大会(ジャカルタ)で、100m10秒7で堂々4位入賞(200m21秒5で2位、4×100mR4走で2位)し大分インターハイに凱旋出場。ダントツのスピードで100m、200m、4×200mRの3冠と走幅跳2位で対校戦「総合優勝」の立役者となった。同インターハイには私も高2で初出場。奇しくも走幅跳び予選ピットで彼の勇姿に出会った。200m予選を軽く流して1着ゴール(当時)したままピットに来て、助走合わせもせず「板」も踏まない無造作な跳躍で、予選記録6m60を軽々と1発で通過。私は3回挑戦するも敢え無く敗退(6m46)。6位入賞の五種競技100mで11秒5の自己新を出したが、10秒7のスピードでの跳躍とは比較するのもおこがましく、あの馬力は、間違いなく「怪物」だった。’64東京(早大)、68メキシコ(リッカー)の両オリンピック出場。メキシコ五輪準決勝の10秒35(電気計時)の日本新記録を残して引退。左脚のサポーターが彼のトレードマークであった。その後、1968年のドラフト9位で「世界初の代走専門選手」としてプロ野球「ロッテ・オリオンズ(当時)」に入団。3年間の現役選手引退後は1年間のランニングコーチを勤めて退団。その後、1979年に郷里の水戸市内で「飯島運動具店」を開業し現在に至っている。運動具店経営の傍ら、スターターを1991年頃まで務めていた。その1991年世界陸上選手権東京大会(東京国立競技場)の男子100m決勝で、カール・ルイス(USA)が9秒86の世界記録を樹立し優勝した際のスターターでもある。

 

2)「プロ野球コーチ」への転身➡先駆者は、64東京五輪出場の鈴木章介(早稲田大卒・大昭和製紙・十種競技)。入団先は読売巨人軍。当時、プロ野球コーチとしての転身は、新鮮で大きなニュースとなった。二人目は、田村征男(東京教育大卒・三段跳)。彼とは大学同期の無二の親友。メキシコ五輪国内最終選考会に優勝するも、標準記録16m00に2cm及ばず選考から外れた。暫く、都内の高校で保健体育教師として勤めていたが、南海ホークス(当時)のランニングコーチに指名され入団。野村、田淵両監督等との相互信頼で30年近くもプロ選手の指導に携わった。入団と同時に球団指示でアメリカでの1年間のコーチング研修に参加、当時流行し始めた「ストレッチ運動」のノウハウをつぶさに修得して帰国。大阪ナンバや福岡中州で酒を酌み交わしながらの「ストレッチ」談義は、私自身の教科及びクラブ指導の大きな糧となった記憶が懐かしい。退団後は、故郷栃木の某ゴルフクラブ・スタートマスター室長として勤務。スポーツセンス抜群でゴルフの腕前は「シングル」。3年前の1月末、実弟からの突然の訃報に絶句。未だ68歳の若さ。「元気な内にもう一度会いたい」と書かれた最期の賀状に、今も涙が止まらない。三人目は、村田広光(順天堂大卒・短距離)。宮崎県立延岡工高時代には、インターハイ2年連続短距離3冠王(100m、200m、400m)の偉業を達成する活躍で、陸上界の話題をさらった。大学卒業後、中日ドラゴンズのランニングコーチに招聘され長きにわたり手腕を発揮した。

 

7.むすび

 

この度は、母校OB会ホームページの手記掲載という、千載一遇の名誉を与えて頂いた事に深く感謝しつつ、貴重な紙面をお借りしてお願いがあります。それは、54年を経て今も残る走幅跳「7m06」の校内記録の更新です。初の「7m超え」は、昭和38年8月22日近畿選手権大会(神戸王子競技場)。一般(実業団・大学生)選手の凄い跳躍に見惚れながら、つられて跳んだ2回目に6m92。「やった、大阪高校新や」と自分でもびっくり、審判に「もう一度測り直して下さい。風は?」と聞いたら、紛れもなく6m92(+1.2)。気を良くして進んだ決勝5回目に7m02と伸びたが+2.1の追風参考記録にがっくり。翌9月、大阪府秋季総合体育大会(服部競技場)。5回目までに大阪府高校タイ記録6m88を2回跳んだものの記録を伸ばせず、「大阪で7m超えはアカンのか・・・」と、諦めの気持ちで跳んだ最終6回目に7m06(風力-0.5)。おまけに、五種競技でも大阪府・近畿高校新記録(3256点)をマークして2冠達成。この「校内記録7m06」、超えた後輩には・・・・・します(笑)。

 

8.付録(別表)

 

★「たかが05、されど05」

 

マラソンの100m05(男子047、女子0”53)の遅れは、フィニッシュで男子3分19秒、女子3分47秒の大差となる。距離にして約1000m。男子の世界記録更新は目覚ましく、いよいよ「1時間台」が目前に迫っている。昨年、(一財)日本実業団陸上競技連合が、日本記録更新選手に「1億円」の特別ボーナス供与を発表して、選手・コーチに大いなる発破を掛けて話題を呼んでいるが、男女とも、一向に「更新」の気配がなく寂しい限り。頑張れニッポン

 

(別表)           世界と日本の種目別「100m」タイム差
  男    子 女    子
  WR NR フィニッシュ
タイム差
平  均
タイム差
WR NR フィニッシュ
タイム差
平  均
タイム差
100m 9”58 9”98 0”40 0”40 10”49 11”21 0”72 0”72
200m 9”60 10”02 0”84 0”42 10”67 11”44 1”54 0”77
400m 10”76 11”20 1”75 0”44 11”90 12”94 4”15 1”04
800m 12”61 13”22 4”84 0”61 14”16 15”06 7”17 0”90
1500m 13”73 14”49 11”42 0”76 15”34 16”52 17”79 1”18
5000m 15”15 15”77 31”05 0”62 17”02 17”86 42”07 0”84
10000m 15”78 16”50 1’12”16 0”72 17”57 18”49 1’31”44 0”92
110H
100H
11”64 12”17 0”59 0”53 12”20 13”00 0”80 0”80
400H 11”70 11”97 1”11 0”27 13”09 13”84 3”00 0”75
3000SC 15”79 16”63 25”30 0”84 17”96 19”13 35”12 1”17
4×100R 9”21 9”40 0”76 0”19 10”21 10”85 2”57 0”64
4×400R 10”89 11”30 6”47 0”41 12”20 13”06 13”74 0”86
ハーフ
マラソン
16”60 17”18 2’02”0 0”58 18”54 19”18 2’14”00 0”64
マラソン 17”48 17”95 3’19”0 0”47 19”26 19”74 3’47”00 0”53
10㎞W 22”31 22”83 52”00 0”52 24”64 25”70 1’46”00 1”06
20㎞W 22”98 22”98 0”00 0”00 25”39 26”42 3’15”00 1”03
50㎞W 25”51 26”42 7’39”0 0”91 30”12 (記録なし)
MAX 25”51 26”42 0”91 30”12 26”42 1”18
MIN 9”58 0”98 0”00 10”49 11”21 0”53
平均 0”51 0”86
★記録は2017(H29)/9/25現在

 



三校対抗 2017年8月3日

 


8月3日、堺市の金岡競技場で三校対抗陸上競技が開催されました。三校対抗の発祥は1948年8月が最初で今年で69年になります。

現在、泉大津高校の陸上競技部をご指導されている浄閑智弘先生に登場いただきました。

 

今日は三校対抗の生みの親でもある阪上先生にお話をおききします。


阪上先生に3校対抗をおおいに語ってもらいました。

1948年中百舌鳥競技場において、三国ヶ丘高と住吉高が最初の対校戦を開催。1957年に阪上先生が泉大津高に赴任されてからこの場に加わり3校対抗となる。三校対抗となって以降、開催は三校が持ち回りとし当番校のグランドを使用することとなる。

1974年住吉高の当番であったが、丁度グランド改修と重なり、長居競技場を使用した。公認競技場使用により参加選手の記録が公認されるということから、学校グランドを持ち回る事を止め、長居競技場を使用することになる。

長居競技場の使用料はかなり高額なので、金岡陸上競技場の改修後、使用料の低額な金岡陸上競技場に移る。公認競技場の使用は3校のみでは負担が大きいので、3校以外の学校にもオープン参加を呼びかけ、3校の分担金と参加料で開催経費を賄うようになる。現在は参加料のみ開催経費を賄っており、記録は未公認である。

当番制の時の話ではスタートブロックがなかったため、スコップで穴を掘ってそこに足をセットしてスタートをしたとのことです。今では考えられないことです。